G-0C41NE8DJB 『国宝』 (前編) ―血と芸、 喜久雄と俊介がすれ違うまで|亀吉の呟き
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『国宝』 (前編) ―血と芸、 喜久雄と俊介がすれ違うまで

『国宝』——人間国宝になることの代償
yoshiomi

1964 年の冬の夜、 長崎の街に雪が降っている。 15 歳の立花喜久雄が、 父・権五郎が雪の中で殺される景色を目にする。 任侠の頭目だった父が、 抗争の最中に死ぬ。 雪の上に広がる赤、 父の倒れた姿、 そして街灯の下で舞い散る雪——その夜の景色が、 後に喜久雄が「ずっと探し続けるもの」 として、 物語全体を貫いていく。

李相日監督『国宝』 (2025 年、 東宝) は、 吉田修一の同名小説 (2018 年、 朝日新聞出版) を原作にした 175 分の大作だ。 50 年の物語を扱い、 邦画実写歴代興行収入 1 位 (200 億円超え) を達成、 第 49 回日本アカデミー賞 10 部門最優秀、 第 98 回米国アカデミー賞メイクアップ&ヘアスタイリング賞ノミネート、 カンヌ国際映画祭の監督週間で 6 分間スタンディングオベーションを受けた作品である。

吉沢亮の喜久雄と横浜流星の俊介、 二人の人生がどこですれ違ったか——その問いを軸にして、 50 年の物語が動いていく。 本作の規模を一本の記事で扱うには、 物語の重みが大きすぎる。 前編では、 二人が出会い、 共に育ち、 そして別々の方向へと落ちていく前半 (1964 年から 1986 年頃) を辿る。 人間国宝への到達と、 ラストの『鷺娘』 については、 後編で扱う。

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1. 任侠の家から花井家へ——15 歳の冬

父・権五郎 (永瀬正敏) を雪の中で失った喜久雄の元に、 一人の歌舞伎役者が現れる。 二代目花井半二郎 (渡辺謙)。 上方歌舞伎の名跡を背負う女形の名手で、 任侠の世界とも縁があった人物だ。 半二郎は喜久雄を引き取り、 花井家に入れる。

花井家には、 半二郎の実子・俊介 (子供時代は越山敬達、 後に横浜流星) がいる。 喜久雄と俊介は同年代で、 ほぼ兄弟のように育つことになる。 二人は朝から夜まで、 女形としての稽古を共にする。 首の傾け方、 手の指の伸ばし方、 着物の裾の捌き方、 声の高さの作り方——一つひとつを、 半二郎と稽古場の役者たちから受け取っていく。

二人の関係は、 ただの兄弟ではない。 同じ家で育ち、 同じ稽古を受けながら、 互いがライバルでもあった。 半二郎の息子である俊介には、 花井家の血が流れている。 喜久雄には、 血の繋がりはない。 ただ、 喜久雄の方が、 顔の作りが整い、 動きの覚えが速い。 半二郎の目に映る喜久雄の存在感は、 場面を重ねるごとに大きくなっていく。

吉沢亮と横浜流星の演技は、 この時期の二人の関係を、 視線と動作の細部で表現していく。 互いを見るときの目の止まり方、 稽古場で並んだときの体の角度、 廊下ですれ違うときの呼吸の合わせ方——派手なドラマではなく、 静かな距離感の中に、 二人のあいだの空気が積もっていく。

2. 兄弟のような日々と、 代役指名——『曽根崎心中』 のお初役

物語の最初の大きな転換点は、 半二郎の事故だ。 半二郎が大怪我を負って入院する。 病室で、 半二郎は次の公演の代役を指名する。 『曽根崎心中』 のお初役を、 喜久雄に。

俊介には託されない。 半二郎の実子であり、 花井家の血を継ぐ俊介ではなく、 引き取られた喜久雄が、 名跡の舞台に立つことを命じられる。

この指名の意味は、 すぐには言葉にされない。 半二郎は理由を語らない。 ただ「お前がやれ」 と告げる。 俊介はその場に居合わせている。 半二郎の選択を、 俊介は黙って受け取る。 反論もしない、 怒りもあからさまにしない。 ただ、 自分が選ばれなかったという事実を、 体に染み込ませていく。

喜久雄はお初役を舞台に立たせる。 興行は成功する。 観客は喜久雄を新しい才能として記憶する。 ただ、 この成功は、 喜久雄を花井家の中心に押し上げる一方で、 俊介と喜久雄のあいだに、 元には戻らない距離を生む。 兄弟のように見えていた二人は、 「半二郎が選んだ後継者」 と「血を継ぐが選ばれなかった息子」 として、 別の場所に立つことになる。

3. 三代目花井半二郎襲名と、 二代目の死——「俊ぼん…」 の最後の声

半二郎は退院後、 喜久雄に告げる。 「目が見えているうちに襲名を済ませたい。 わしが花井白虎、 お前が三代目花井半二郎を継いだらええ」。 自分は四代目花井白虎の名跡に移り、 二代目花井半二郎の名は喜久雄に継がせる、 という決断だ。

喜久雄は三代目花井半二郎を襲名する。 花井家の重い名跡を、 血の繋がらない若者が引き受ける。 襲名披露の舞台は、 上方歌舞伎の関係者と観客で満員になる。

その襲名披露の舞台で、 半二郎は倒れる。 血を吐き、 体を崩す。 喜久雄が駆け寄る。 半二郎は息も絶え絶えに、 何かを呟く。

「俊ぼん…」

息子・俊介の幼少期の呼び名だった。 半二郎は襲名を喜久雄に委ね、 名跡の継承を完了させたあとで、 最後の息で実子の名を呼んで死ぬ。

この死の場面が、 物語の倫理的な重心になる。 半二郎は喜久雄を選んだ。 だが、 最後に呼んだのは俊介だった。 半二郎自身が、 「血」 と「芸」 のあいだで揺れ続けていたことが、 死の瞬間の声の中に刻まれる。 喜久雄は襲名披露の舞台の上で、 二代目の最後の声を受け取る。 受け取ったその声が、 自分ではなく俊介の名前だったという事実を、 喜久雄は身体に染み込ませる。 三代目花井半二郎を継いだ直後に、 喜久雄は最大の後ろ盾を失う。 そして、 自分が選ばれた根拠の半分が、 半二郎の最後の声で打ち消されたかのような感覚も、 同時に抱えることになる。

4. 春江の選択、 俊介の出奔

俊介はこの父の死を受けて、 花井家を出る。 父の最後の声で自分が呼ばれたという事実を抱えながら、 だが父が選んだ後継者は自分ではなかった、 という事実も同時に抱えながら、 俊介は歌舞伎の世界からも距離を取っていく。 ストリップ小屋などを回ってドサ回りをする、 落魄の時間が始まる。

ここで、 春江 (高畑充希) という女性が物語に入ってくる。 春江は喜久雄の幼なじみで、 元恋人だった。 喜久雄は春江にプロポーズする。 だが春江は、 そのプロポーズを断る。

理由は、 直接の台詞では語られない。 春江は喜久雄の側に行かず、 落ちぶれていく俊介を支える側に回る。 ドサ回りの俊介を、 春江は静かに支え、 やがて二人は結婚する。 息子・一豊が生まれる。 春江は俊介の妻になり、 一豊の母になる。

この選択の意味は、 物語の中で多義的に置かれる。 喜久雄が芸の道を選ぶことを春江が肯定して去った、 とも読める。 弱い俊介を放っておけなかった、 とも読める。 ただ確かなのは、 喜久雄が「家庭」 という形を持つ機会を、 ここで失った、 ということだ。 春江は喜久雄の元恋人として終わるのではなく、 俊介の妻という、 喜久雄から見れば最も近くて最も遠い場所に立つ人になる。

5. 喜久雄の失墜——彰子との関係、 花井家を出る

喜久雄の側にも、 一人の女性が現れる。 彰子 (森七菜)。 別の歌舞伎名家・吾妻千五郎の娘で、 喜久雄の正妻となる女性だ。

ただ、 喜久雄と彰子の関係が、 1986 年にスクープされる。 詳細は本文では深追いしないが、 「丹波屋の名前に泥を塗ってしまいました」 という台詞とともに、 喜久雄は花井家を出る決断をする。 三代目花井半二郎という名跡を背負ったまま、 喜久雄は歌舞伎界の中心から離れていく。

ここから、 喜久雄の落魄期が始まる。 花井家を出た喜久雄は、 宴会場や、 ストリップ小屋などを回って舞い続ける数年間を過ごす。 三代目花井半二郎の名跡を背負った男が、 観客が拍手するためでもなく、 評論家が評価するためでもなく、 ただ舞いを続ける場所に身を置く。

この時期、 喜久雄は京都で藤駒 (見上愛) という芸妓と関係を持つ。 京都の夜の街、 三味線の音、 芸妓の所作——舞台と地続きでありながら別の質感を持つ場所で、 喜久雄は別の時間を過ごす。 後に二人の間に綾乃が生まれることになる。 ただし、 喜久雄と藤駒の生活が安定した形を持つことはない。 喜久雄は舞台への復帰の道を探りながら、 京都と各地のあいだを行き来する。 綾乃は父の不在の中で育つことになる。 後の物語の中で、 綾乃が「お父さんは悪魔と取引した」 という母の言葉を聞かされるのは、 この時期に種が蒔かれている。

前編おわりに. 別々に落ちて、 別々に戻る予兆

前編で起きていたことを、 もう一度並べておきたい。 1964 年の冬、 父の死の雪景色を見た喜久雄が、 半二郎に引き取られて花井家に入る。 兄弟のように俊介と共に育ち、 半二郎の代役指名で『曽根崎心中』 のお初を舞う。 三代目花井半二郎を襲名するが、 半二郎は襲名披露の舞台で「俊ぼん」 と呟いて死ぬ。 俊介は出奔し、 春江は俊介の妻になる。 喜久雄も彰子のスキャンダルで花井家を出て、 落魄期に入る。

二人は、 別々の方向へ落ちている。 俊介は父の最後の声を抱えてストリップ小屋を回り、 喜久雄は花井家の名跡を背負ったまま宴会場で舞い続ける。 互いの音信は途絶え、 互いの居場所も分からない。

そして、 二人はそれぞれ、 別の経路で歌舞伎の世界に戻っていく。 俊介は田中泯の演じる老女形・小野川万菊の後ろ盾を得て、 「花井半弥」 の名で復帰する。 喜久雄は三代目花井半二郎の名跡を抱えたまま、 やがて舞台に戻り、 数十年を経て、 ある国家的な称号を授かることになる。

後編では、 二人が別々に戻った先に、 何が待っていたかを辿る。 そして、 喜久雄が辿り着いた景色が、 15 歳の冬に見た景色と、 どう重なっていたかを観察する。

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