『1973年のピンボール』―見つけた夜に、何も起きなかった
はじめに. 倉庫の薄暗さ——到達という名の静止
冬の深夜、廃棄された倉庫の中にピンボール・マシンが並んでいる。
「僕」は三年間探し続けていたピンボール・マシン「スペースシップ」の前に、ついに立つ。長い探索の末に訪れるべき感動があるはずだと、読んでいる側は構えているのだ。記憶の奔流か、何かの解放か、あるいは喪失の確認か。そういう場面を待っている。
だが、何も起きない。
「僕」はしばらくその前に立ち、マシンに触れ、静かにその場を離れる。村上春樹はその場面をほとんど書かない。到達したはずの夜が、倉庫の薄暗さの中で静止したまま、物語の内側に残される。説明がないから何かを掴もうとするが、掴もうとするほど、静けさは指の間をすり抜けていく。探していたものを見つけた。それだけのことである。
この小説が刊行されたのは1980年で、鼠三部作の第二作にあたる。一作目の『風の歌を聴け』から引き継がれた「鼠」と「僕」の物語は、この作品で静かに、しかし決定的に、ある終わりへと向かっていくのだ。爆発的な終わりではなく、劇的な決別でもない。ある夜に何かが置いていかれ、朝になってもそれは戻ってこなかった——そういう種類の終わりである。
「見つけた」という事実は、意味を自動的には生まない。その事実を前に静止している「僕」の内側を、村上春樹は書かない。書かない場所に何かがあるとすれば、その輪郭は読んでいる側の体の中でしか測れないのかもしれない。
1. 番号だけが残る日常——双子の女たちとの同居
「僕」のアパートに、ある朝、双子の女が現れる。
彼女たちには名前がない。物語の中では「208」と「209」と呼ばれ、「僕」の押し入れで眠り、朝になると台所でビールを飲む。どこから来たのか、どこへ向かうのか——「僕」は尋ねない。彼女たちもそれを語らない。番号だけが識別のための記号として機能し、素性は最後まで明かされないまま、二人は「僕」の生活の中に座り込んでいるのである。
この同居には、奇妙なほどの居心地の良さがある。「僕」は翻訳の仕事をして、ビールを飲み、レコードをかけ、双子と他愛のない会話を交わす。事件は起きない。何かが動き始めることもない。しかし読んでいると、その日常の空気に引力のようなものが働いているのだ。その引力は何かを指し示しているわけではなく、ただそこにあって、「僕」の生活の温度を少しだけ変えている。意味を指さすことをしないまま、空気のように物語に溶けているのである。
双子の女たちが「僕」にとって何だったのかは、小説が終わっても判然としない。「僕」の孤独の鏡だったのかもしれないし、失われていくものの予兆だったのかもしれない。あるいは、そのどちらでもなく、ただそこにいたのかもしれない。重要なのは、「僕」が彼女たちを解釈しようとしないことである。なぜここにいるのかを問わず、何を意味するのかを考えず、居心地のいい不思議さとしてそのまま受け取っている。その姿勢が、この小説全体の体温をつくっているのだ。
双子との日常は、「待機」のように物語の中で機能しているように見える。何かが始まるわけでも終わるわけでもない、ただ続いているような日々だ。何かを待っていることが、待っていること自体として成立している時間である。双子が去った後、「僕」の部屋には荷物がなくなり、押し入れの空白だけが残る。名前をつけられた別れではなく、ある日から気配がなくなっているという種類の消え方が、この小説にはいくつかあるのだ。
双子の去り際は、嵐の後ではなく、窓を静かに閉めたときのように訪れる。前半をかけて積み重ねられた彼女たちの気配が、ある日から部屋の空気に混ざらなくなる。「僕」がそれをどう受け取ったのかも、村上春樹はほとんど書かない。押し入れに残った空白が、何かの輪郭をしている。それが何の輪郭なのかは、書かれていないままである。
後の村上作品に通底する「不思議な存在」のプロトタイプとして、双子の女たちはここに登場しているのかもしれない。名を持たない存在が物語の中で機能を果たし、何も説明されないまま去っていく——その構造が、この作品の中では細く、しかし確かな形で刻まれているのである。
2. 遠ざかる声の形——鼠の手紙と街からの出発
一方、鼠のパートは「僕」の物語とは別の場所で静かに進んでいる。
鼠はジェイズ・バーに通いながら、街を去る決意を固めつつある。バーテンダーのジェイは、鼠の話を黙って聞く存在としてそこにいる。鼠が何から離れようとしているのか、ジェイはそれを問わない。バーのカウンターという場所が、そういう問わなさを許しているのだ。何かを語ることと、それを黙って受け取ることの間に、この場面の静けさは宿っている。
鼠が「僕」に送る手紙は短く、どこかよそよそしい。逃げているのか、向かっているのか——それも判然としない。ただ、手紙を書き続けているのである。そして「僕」は、その手紙を受け取り続けている。この往復のなさが、二人の関係の核心に触れているのかもしれない。手紙は届くが、返事は物語に書かれていない。
二人の友情は一作目から引き継がれたものだが、この小説の中でその友情は、互いの近くにいることではなく、遠くにいることによって維持されているように見える。距離の中にある親密さ、というものが、鼠と「僕」の間には存在しているのだ。近づけば壊れるものが、遠ければ続く——そういう関係の形が、手紙という形式の中に静かに封じられている。
鼠のパートを読みながら何かを感じていても、それに名前をつけるのは少し早いのかもしれない。喪失は、何かが終わったときに初めて輪郭を持つのであって、鼠の手紙が届き続けている間は、まだそれは喪失ではないのだろう。遠ざかっていくものの気配が、手紙の紙の白さの中に薄く浮かんでいる。1960年代が終わり、70年代も終わろうとしているその時代に、鼠の声は少しずつ遠くなっていくのである。
挽歌ではないが、何かを見送っているような眼差しが、そのパートの底にある。ジェイズ・バーのカウンターで、ジェイは鼠の語りの重さを、言葉ではなく沈黙でうけとめている。バーの空気と、手紙の白さと——遠ざかっていくものは、そのどちらの中にも静かに漂っているのだ。何かが終わる前の夜の色が、神戸の街の描写の中に染み込んでいるように感じられる。
鼠の物語が向かう終点を、ここで書くことはしない。ただ、この作品の中で鼠のパートが持っている静かな重さは、「僕」のスペースシップ探索と並走することで、互いの喪失を照らし合っているのかもしれない。東京の翻訳事務所と、神戸のジェイズ・バー。二つの場所で同時に、何かがゆっくりと、しかし確実に終わろうとしているのである。
3. 配電盤の葬式——埋めるという小さな儀式
「僕」と双子が、古い配電盤を貯水池に埋める場面がある。
電話局の若い修理工が「僕」のアパートの配電盤を交換しに来た後、古い配電盤は役目を終える。その配電盤を、「僕」と双子は貯水池へ持っていくのだ。埋める。それだけのことが、ある静かな重さを持って物語の中に置かれている。配電盤の葬式と呼ぶしかないような儀式が、誰に頼まれたわけでもなく行われるのである。
この小さな儀式が何を意味するのかを、村上春樹は説明しない。役目を終えたものを埋めることが、別れや喪失のメタファーとして機能しているとも読める。しかし物語は、そう読ませようとして書いているわけではないのだ。ただ「僕」と双子が配電盤を持って貯水池へ向かい、埋めて戻ってくる。それだけの出来事が、何かの手触りを残す。その手触りに名前をつけないまま、物語は次の場面へ移っていく。
この小説には、そういう小さな儀式がいくつかあるのだ。名付けられることなく、説明されることなく、物語の中に静かに置かれている場面。配電盤の葬式もその一つである。何かが終わることを誰も宣言しないまま、終わっている。そういう終わり方が、この小説全体の時間の感覚と一致しているように見える。1973年という過去の年号をタイトルに持ちながら、物語の現在を描いている——その時間の重なり方と、配電盤の埋め方は、似た構造をしているのではないだろうか。
井戸のイメージも、この作品の中に小さく現れているのだ。後の村上作品で重要なモチーフとなる「井戸」が、本作では細い形でまだ顔を出している。配電盤の葬式や、その後の作品で育っていく井戸のイメージ——どちらも、何かを地面の下に預けることを含んでいるのである。見えなくなることと、消えることは、同じではない。「僕」が埋めたものは、貯水池の底で、物語が終わった後も残っているはずである。
「僕」と双子の三人が貯水池へ向かう場面には、日常の延長としての儀式という奇妙な静けさがある。誰も泣かないし、誰も何かを宣言しない。配電盤はただ土の中へ沈んでいく。その静けさが、この小説全体の喪失の質感と同じ温度をしているのだ。大きな別れは、たいてい小さな動作の中に隠れているのかもしれない。
4. 探すことが自分の形になる——三年間という時間
「僕」がスペースシップを探し始めたのは、強い動機からではない。
かつてピンボールに熱中した「僕」は、あの機械にもう一度触れたいと思う。ただ、それだけである。失われた何かを取り戻そうとしているわけでも、誰かへの約束を果たそうとしているわけでもない。ある日、探し始め、三年が経ったのだ。その三年間の重さは、物語の中でほとんど語られない。語られないまま、「僕」の日常の底に積もっているのである。
探すことを続けていると、それが自分の一部になる瞬間があるのかもしれない。目的を達成するための手段として始まった探索が、いつのまにか「探している自分」という状態へと変わっていく。スペースシップを見つけることが重要なのではなく、スペースシップを探しているという事実が「僕」の毎日の中に奇妙な軸をつくっているのだ。その軸は、三年間、「僕」が自分自身に触れるための手がかりとして機能してきたのかもしれない。探すことが、「僕」の輪郭になっていたのである。
問題は、その輪郭が、見つけた瞬間にどうなるかということだ。探すことで保たれていた形は、見つけることで解消されるのか。あるいは、見つけた後も「かつて探していた自分」として残り続けるのか。村上春樹はその問いに答えない。倉庫の夜は来て、「僕」はマシンの前に立ち、そして何も語られないまま、その場面は終わるのである。三年間かけて育てた探索の感覚が、見つかった瞬間にどこへ向かったのかは、書かれていない。
何かを長く探し続けた時間が終わったとき、奇妙な空白が生じることがあるのだろう。手に入れたとか、諦めたとか、そういう理由で探すことが終わった後に、そこにあった軸ごと消えてしまったような感覚である。目的が達成されたのに、何かが失われた——その矛盾を、「僕」のスペースシップ探索は静かに抱えているのだ。村上春樹はその矛盾を説明しない。語られないからこそ、その空白に読んでいる側が自分自身を少しずつ流し込んでいくような読み方が生まれてくるのかもしれない。
三年間は三年間として、そこにあった。その時間が「僕」の体にどう刻まれているのか、倉庫の夜が終わった後にそれが何かを変えるのか——村上春樹はそれを書いていないのである。書かれていない以上、その重さは読んでいる側の体の中で測るしかない。探すことに費やした時間の密度は、見つけた後に初めて問われる問いを抱えているのだろう。
翻訳事務所で働き、双子の女たちと台所でビールを飲み、レコードをかけながら過ごす日々の底に、探索の時間は静かに積もっていたのである。その積もり方が「僕」の日常の質感をつくっていたのだとすれば、スペースシップを見つけた夜は、何かを完成させた夜であると同時に、何かが失われた夜でもあったのかもしれない。
5. 「1973年」というプレート——過去の時刻表
この小説のタイトルが「1973年のピンボール」であることは、読み終えてから改めて考えると、奇妙な構造をしているのだ。
1973年は、物語の現在時制ではない。「僕」がピンボールに熱中していた過去の年号である。スペースシップを探す旅の出発点となった年であり、鼠との時間がまだ濃密だった年でもあるのだ。タイトルは、物語の「今」ではなく、すでに終わっている何かを指している。そのタイトルを持ったまま、物語は「今」を描いているのである。
過去に起点を置いたタイトルは、この物語全体を、回顧として読ませる構造になっている。しかし、読んでいる最中にその感覚はない。「僕」の日常は現在として流れ、双子の女たちの気配は現在のものとして届くのだ。タイトルが示す過去と、物語が描く現在の間に、小さなずれがある。何かはすでに終わっているのに、それが現在の中に影のように混ざっている——そのずれが、この小説の時間の感覚をつくっているのではないだろうか。
ベトナム戦争が終結した年でもある1973年を、村上春樹はタイトルに置いた。時代の終わりと、個人の喪失が、同じ年号の中に重なっているのだ。それが意図的な選択であることは明白だが、物語はその重なりを説明しない。1973年という数字が、時代と個人の両方を引き受けたまま、タイトルとして静かに立っているのである。
鼠のパートは、この小説の最後で終わりを迎える。どのような終わりかをここで書くことはしないが、その終わりは唐突でも劇的でもない。ある場所で鼠の物語が閉じられるのだ。一作目から続いてきた何かの、静かな終点である。手紙の文字が薄くなっていくような遠ざかり方で、終わる。終わったとも、続いているとも、どちらとも言えない場所に、鼠の物語は置かれているのだ。
1973年というプレートは、そのすべてを含んだ年号として、タイトルの中にある。あの年に何があったのかではなく、あの年がすでに「過去」になっているという事実が、タイトルの中に刻まれているのである。読み終えた後もその刻印は残り、それぞれの記憶の中にある何かの年号と静かに重なっていく。「1973年」が自分の中の別の年号に接続するとき、「僕」の探索はいつのまにか読んでいる側の何かの探索と並走し始めているのかもしれない。
おわりに. 翌朝の光の中で——何も変わらなかった朝
倉庫の夜が終わる。
「僕」の生活は続く。翻訳の仕事をして、ビールを飲んで、レコードをかける。双子の女たちはもういない。鼠の手紙は、もう届かないかもしれない。スペースシップは見つかった。それだけのことが起きて、朝になるのだ。
「見つけた」という事実は、確かにある。三年間探し続けて、ついに倉庫の中でそのマシンの前に立った。その事実は変わらない。しかし「見つけたから何かが変わった」という因果が、この物語の中には存在しないのである。変化は到達によって自動的にはもたらされない。「僕」の朝は、昨日の朝と同じように始まる。倉庫を出た足が、同じ道を歩いて、同じ部屋へ戻るのだ。
探すことに費やした時間は、探すことが終わった後も「僕」の体の中に残っているのだろう。何だったのかは、すぐにはわからない。ただ、そこにあった時間として、何かを変えたかどうかさえわからないまま積み重なっているのである。村上春樹がスペースシップの前での沈黙を書き記さなかったのは、その沈黙が説明できる種類のものではなかったからかもしれない。あるいは、書いた瞬間に別の何かに変わってしまうものだったからかもしれない。
「僕」が翌朝に目覚めたとき、最初に何を思ったのか。
村上春樹はそれを書いていない。書かれなかった朝の続きが、倉庫の薄暗さの中に静止したまま置かれている。
