G-0C41NE8DJB 『道徳形而上学の基礎づけ』カント — 正しさは、損か得かの外側にある|亀吉の呟き
亀吉の書評

『道徳形而上学の基礎づけ』カント — 正しさは、損か得かの外側にある

『道徳形而上学の基礎づけ』カント — 正しさは、損か得かの外側にある
yoshiomi

正しいことをしても報われず、むしろ損をする。嘘をついたほうが得をして、約束を破ったほうが楽になる。だとすれば、世の中は結局、損か得かで動いているのではないか。正しさなんて、その場の建前にすぎないのではないか。

千七百八十五年、一人の哲学者がこの問いに正面から答えようとした。イマヌエル・カント。『道徳形而上学の基礎づけ』という、薄い一冊においてだった。カントの答えは、当時としても、いま読んでも、奇妙なほど揺るがない。正しさの根拠は、結果にもない。神にもない。幸福にもない。それは、理性が自分自身に課す一つの法則のなかにある——。

損得の外側に正しさを置く、というこの一手が、何を意味するのか。そして、なぜそれが最後に「自由」という言葉へたどり着くのか。順を追って見ていきたい。

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1. ケーニヒスベルクの教授——生涯ほぼ一つの街で

カントは千七百二十四年、プロイセンの港町ケーニヒスベルクに生まれた。いまのロシア、カリーニングラードにあたる。そして七十九年の生涯を、ほぼこの街の中だけで過ごした。旅らしい旅をした記録がない。世界を動かすことになる思想を書いた人が、世界をほとんど見ずに書いた。

両親は敬虔主義のルター派で、神の前での謙虚さを重んじる家庭だった。カントは地元の大学でライプニッツやヴォルフの合理論を学び、ニュートンの自然学に触れる。二十代の前半で父を亡くし、大学を離れて十年近く、近郊の家で家庭教師をして暮らした。哲学者として名を成すには、ずいぶん遠回りの出発だった。敬虔主義の家庭で育ったことは、のちの仕事に影を落としている。派手な信仰の身ぶりよりも、内面の誠実さと、なすべきことを黙ってなす姿勢を重んじる気風。カントが道徳の値打ちを、見える成果ではなく見えない動機の側に求めたとき、その出発点には、この育ちの記憶があったのかもしれない。

大学に戻ってからも、学生から直接謝礼を受け取る私講師の身分が長く続いた。論理学と形而上学の教授という安定した職に就いたのは、四十六歳になってからである。そして就任の直後から、カントは目立った大著をほとんど発表しなくなる。のちに「沈黙の十年」と呼ばれる時期だ。黙っていたあいだ、彼は人間の認識そのものを問い直す大きな仕事に取り組んでいた。

その沈黙が破れたのが、千七百八十一年の『純粋理性批判』だった。人間は何を知りうるのか、を問うた本である。『道徳形而上学の基礎づけ』はその四年後、人間は何をなすべきか、という問いの側から書かれた。さらに『実践理性批判』『判断力批判』と続く。遠くへ出かけることもなく、規則正しい散歩を日課にしていた男が、近代の倫理の地図を引き直していった。

『基礎づけ』には短い序文がある。そこでカントは、道徳の原理は経験から取り出すものではない、と宣言する。世の中の人が実際にどう振る舞っているかをいくら観察しても、人がどう振る舞うべきかは出てこない。あるべきことの根拠は、経験のなかにではなく、理性そのものの内に、混じり気のない形で求めなければならない。題名の「基礎づけ」とは、その純粋な土台を掘り当てる作業のことだった。「形而上学」という言葉は仰々しく響くが、ここでは、経験に頼らず理性だけで組み立てられた原理の体系、というほどの意味だ。物理の法則を観察から集めるのとは逆に、道徳の法則は理性のうちから取り出せる、とカントは考えた。

2. 善意志——結果ではなく動機

『基礎づけ』は、有名な一文から始まる。「この世界の内で、いや、そもそもこの世界の外でも、無制限に善とみなしうるものは、善意志をおいてほかに考えられない」。頭の良さも、勇気も、富も、それ自体では善とも悪とも言えない。悪人が手にすれば、どれも悪を増やすからだ。ただ一つ、善意志だけが、無条件に善い。カントはそう言い切る。

ここで踏みとどまっておきたいのは、善意志が善いのは何かを成し遂げたからではない、という点だ。良い結果を生んだから善いのではない。たとえ運悪く何ひとつ実を結ばなかったとしても、善意志はそれ自体で、宝石のように光る——カントはそういう書き方をする。値打ちは、結果の側にではなく、意志そのものの側にある。

では、その意志を善くするものは何か。カントは「義務」と呼ぶ。義務とは、法則への尊敬から行為することだ。たとえば、損得を抜きにして約束を守る。同情の気分が湧いてこない相手にも、助けるべきだから助ける。好き嫌いや気分——カントの言葉では傾向性——に背中を押されて動くのではなく、そうすべきだから、という理由だけで動く。そこにだけ、道徳的な値打ちが宿る。

カントが挙げる例がある。商人が、世間知らずの客にも高い値をふっかけず、誰にでも正直な値で売るとする。行いとしては申し分ない。けれども、その正直さが、評判を保って客を逃さないための計算から来ているなら、そこに道徳的な値打ちはない、とカントは言う。同じ正直な行いでも、損得のためにするのか、正直であるべきだからするのか。外から見たら見分けのつかないその差を、カントは値打ちの分かれ目とした。

これは冷たく聞こえるかもしれない。感情を否定し、義務だけを抱きしめる堅物の哲学のように。けれどもカントが言っているのは、感情を捨てろ、ということではない。気分が良いから親切にする人は、気分が悪い日には親切をやめてしまう。損得や感情に左右されない何かを、行為の根に据えられるか。問われているのは、そこだ。

3. 条件つきの命令と無条件の命令——仮言命法と定言命法

私たちが普段従っている命令の多くは、条件つきだ。健康でいたいなら、暴飲暴食をやめよ。人に信用されたいなら、嘘をつくな。カントはこれを仮言命法と呼ぶ。「もしXを望むなら、Yせよ」。目的があって、その手段として命令が立つ。望みが消えれば、命令も消える。信用などどうでもいい、と思った瞬間、嘘をつくな、は力を失う。

仮言命法にも種類がある。外国語が話せるようになりたいなら毎日その言葉に触れよ、というような、特定の目的のための技術の命令。それから、誰もが望む幸福のための助言。健康に気をつけよ、たくわえを持て、といったものがこれにあたる。ただし幸福の中身は人によって移ろい、何をすれば幸福になれるかは誰にも確とは言えない。だから幸福のための命令ですら、ぐらつかない土台にはならない。無条件に命じられるのは、技術でも幸福でもなく、ただ道徳の命令だけである。カントはそう見た。

仮言命法はいくらでもある。望みの数だけ、それに見合う手段の命令が立つからだ。けれども定言命法は、ただ一つしかない。目的に依存しないということは、特定の中身に縛られないということでもある。だからカントは、まず「こう行為せよ」という形そのものから、道徳の命令を取り出そうとした。

道徳の命令は、条件つきでは困る。「信用されたいなら正直であれ」では、信用を諦めた人に正直さを命じることができない。本当に道徳的な命令なら、どんな目的にもぶら下がっていないはずだ。条件を一切つけずに、ただ「そうせよ」と命じる。カントはこれを定言命法と呼んだ。無条件の、絶対の命令である。

ここが、損得の外側、という言葉の正体だ。仮言命法は、得をするための道具として正しさを扱う。定言命法は、得とは無関係に正しさを命じる。前者では、正しさは何かの手段にすぎない。後者では、正しさそのものが目的になる。カントは道徳を、後者の場所に——いかなる見返りも前提にしない場所に——据えようとした。

4. 三つの言い方とひとつの法則——第二章で語られること

では、その無条件の命令は、具体的にどう述べられるのか。『基礎づけ』の第二章で、カントは定言命法を三つの言い方で示す。順に見ていく。

第一の言い方。「汝の格率が普遍的法則となることを、その格率によって同時に意志しうるような、その格率にのみ従って行為せよ」。格率とは、自分が実際に従っている行為の方針のことだ。カント自身が挙げるのは、返すあてもないのに金を借り、返すと約束する場面である。困ったら守るつもりのない約束をする、という方針を、誰もが従う法則にしてみる。すると、約束という言葉を誰も信じなくなり、約束そのものが世の中から消えてしまう。方針を普遍化したとたん、その方針が成り立っていた土台ごと崩れる。これでは、その方針を普遍的な法則として意志することはできない。普遍化したとたんに自滅する方針は、道徳的ではない。そう試すのが第一の言い方である。別の種類の方針もある。困っている人を見ても、自分は決して手を貸さない、という方針。これは普遍化しても、約束のように自滅はしない。誰も助け合わない世界は、それなりに回ってしまう。けれども、自分がいつか助けを必要とする側に立つことを思えば、その方針を心から法則として望むことはできない。同じ普遍化の試しでも、行き詰まり方が違う。

第二の言い方が、この本でもっとも知られた一句を含む。「汝の人格および他のあらゆる人格のうちにある人間性を、つねに同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」。人を手段として使うな、ではない。私たちは日々、互いを手段として使っている。店員も、運転手も、誰かの目的のために働いている。カントが禁じるのは、単に手段としてのみ扱うこと——相手を、目的を持つ一人の人間として同時に尊重することを、忘れてしまうことだ。

ここで気をつけたいのは、この「人を手段としてのみ扱うな」が、第一の言い方とは別の独立した命令ではない、ということだ。カントは、三つの言い方は同じ一つの法則を違う角度から述べたものだと考えていた。普遍化できる方針に従え、というのと、人間を目的として扱え、というのは、根が一つである。後者は、前者を人間という具体に引き寄せた言い方にすぎない。

第三の言い方は、目的の王国と呼ばれる。すべての理性的な存在者が、それぞれ自分で法則を立てる立法者であり、同時にその法則に従う成員でもある——そんな共同体を思い描き、その一員であるかのように行為せよ、という。一人ひとりが法則を与え合い、互いを目的として扱い合う社会の像である。三つの言い方は、こうしてひとつの法則のまわりを回りながら、最後に自律という考えへ近づいていく。

5. 自分で自分に課す——自律という名の自由

ここまで来て、カントの議論は思いがけない場所に出る。道徳法則は、外から与えられたものではない、というのだ。神が命じたから従うのでも、罰が怖いから従うのでもない。幸福になれるから従うのでもない。それらはすべて、自分の外にある何かに理由を預ける態度——カントの言葉では他律——である。

カントは、自分より前の道徳論の多くを、この他律に分類した。神の意志に従えと説く立場も、幸福を最大にせよと説く立場も、人間の完成を目指せと説く立場も、根拠を意志の外に置いている点では同じだ、と。どれも、なぜそれに従うべきかを、結局は別の何か——神の権威や、得られる幸福——で支えている。それでは、命令はその支えがある間しか立たない。

これに対して、自分の理性が自分自身に課した法則に従うこと。これをカントは自律と呼んだ。立法する者と、法則に従う者が、同じ一人の人間のなかで重なる。誰かに従わされているのではなく、自分が立てた規則を、自分で守る。

そして、この自律こそが、カントにとっての自由だった。ここは誤解されやすい。自由とは、好き勝手にふるまうことではない。気分のままに、欲望のままに動くとき、人はむしろ傾向性に引きずられている。それは自由ではなく、衝動への隷属に近い。自分で立てた法則に、自分で従えるとき——そのときだけ、人は何かに突き動かされる側の立場から抜け出して、自分の行為の本当の起点になる。

損得の外側に正しさを置く、という出発点が、ここで一周する。損得に従うなら、人は得という外部の目的に縛られている。定言命法に従うなら、人は自分の理性が立てた法則に従っている。前者は他律であり、後者は自律である。正しさが損得の外にあるとは、正しさが自由の側にある、ということだった。

おわりに——言い切らないということ

ここまで読むと、カントはずいぶん潔く、すべてを言い切る哲学者に見えるかもしれない。ところが『基礎づけ』の最後で、カントは奇妙なほど慎重になる。

定言命法は、たしかに私たちに無条件に命じてくる。けれども、なぜそんな命令が人間にとって可能なのか。どうして理性が、損得を抜きにして自分に法則を課しうるのか。その究極の根拠を、カントは説明しきれない、と認めるのだ。第三章の終わり近く、彼は、定言命法がどうして可能かを概念として把握することはできない、と書く。そして、その把握できなさそのものを把握する、という不思議な言い方で本を閉じる。原典の整理番号で第四巻四百六十三ページ、研究者がよく引く一節である。この問いは、三年後の『実践理性批判』へ持ち越されていく。

これは敗北の告白ではない。理性が、自分の力の及ぶ範囲をどこまでも見定めようとして、その限界の一歩手前で立ち止まった、という宣言だ。ここから先は分からない、と分かること。それを言えるところまで、カントは理性を連れて行った。答えを最後まで言い切ってしまえば、本はもっと格好よく終わっただろう。カントはそうしなかった。

正しいことをしても損をするのではないか——その問いに、『道徳形而上学の基礎づけ』は、損得を超えた正しさが確かにある、と保証してはくれない。カントが示すのは、その正しさを、外の誰かにではなく、自分の理性のなかに探しにいく道があることだ。そして、その道の行き止まりに、説明しきれない何かが残っていることまで、隠さずに書き残した。生涯ひとつの街を出なかった男が最後に引いたのは、人間の理性が自分自身に定めた、一本の正直な境界線だった。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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