G-0C41NE8DJB 『69 sixty nine』村上龍|考察・感想 — 1969年の祭りの夏
亀吉の書評

『69 sixty nine』―大義なんてなかった、それでもそこにいた

『69 sixty nine』―大義なんてなかった、それでもそこにいた
yoshiomi

夏の終わりの教室に、誰かが忘れていった消しゴムが一つ落ちていた。窓の外では蝉が鳴いていて、廊下には誰もいなかった。何かをしなければと思いながら、何をすればいいのかわからないまま、ただその教室にいた。そういう夏の記憶を持つ人間が、村上龍の『69 sixty nine』を読むと、どこかで手が止まる瞬間がある。

村上龍の『69 sixty nine』は、1969年の長崎を舞台にした小説だ。学生運動の季節、バリケード封鎖の時代という文脈で語られることが多い。でも、ケンという主人公が動く理由は、その文脈とほとんど噛み合っていない。退屈だったから。目立ちたかったから。好きな子の前に立ちたかったから。その不純さを、村上龍はわざわざ隠さない。隠すどころか、執拗に、丁寧に、最後まで書き続ける。

問題は、この小説を読み終えた後で、その不純さがこちら側にも静かに移ってくることだ。「あの時、本当は不純な理由で動いていたんじゃないか」という記憶を持つ人間にとって、この本は説明も慰めも与えない。ただ、1969年の夏が、不純なまま走り続けている。それが隣に座ってくる感覚がある。刺さる、というより、座ってくる。その距離感が、この小説を他の青春文学と少し違う場所に置いている気がする。

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1. 退屈という燃料——純粋さを持てなかった者たちへ

ケンの出発点は、退屈だ。授業はつまらない。学校の秩序はばかばかしい。もっとおもしろいことがしたい。その「おもしろいこと」として、バリケード封鎖が浮かぶ。社会変革への確信も、歴史への責任も、思想的な必然性もほとんどない。あるのは、このままでいたら死ぬほど退屈だという感覚と、「かっこいいことをしたい」という欲求だけだ。

退屈を動機にすることは、どこか恥ずかしいことだと私たちは知っている。動くなら理由があるべきだ、信念があるべきだ、使命があるべきだ。そういう圧力は今も昔も存在していて、だから「本当は退屈だっただけ」という理由で動いた人間は、その動機を少しずつ後ろへ隠していく。時間が経つほど、美しい物語の方が前に出てくる。こうして、退屈が動機だったことは記憶の中で静かに書き換えられ、語られなかった動機はやがて存在しなかったことになっていく。

村上龍がやっていることは、その書き換えを許さないことだ。ケンの退屈を、最後まで退屈として扱い続ける。成長させない。乗り越えさせない。退屈から出発したまま、物語は走り続ける。その徹底ぶりは、読んでいて少し痛い。自分の動機の不純さを、真正面から鏡で見せられているような感覚があるからだ。

退屈という感覚は、それ自体がひとつの切実さではないか。軽薄さとは少し違う。重さを持てなかったというより、重さを必要としなかった、という感じに近い。1969年という時代の文脈に、ケンの退屈は収まらない。でも収まらないまま、それがバリケードへの衝動を生んでいく。その回路の、どこか素直な感じが、ページをめくる手を止めさせる。

もしかすると、純粋な動機で動いた人間の方が、歴史的には少数派なのかもしれない。退屈だったから、恋をしていたから、なんとなくその場の勢いで。そういう理由で動いた人間の方がずっと多かったとしても、それでも、その動きは存在した。退屈が燃料であっても、火は燃えた。大義があったかどうかという問いより先に、起きたかどうかという事実の方を、この小説は持ち続けている。

退屈を恥じながら動いた経験は、時間が経つほど語りにくくなる。純粋だったと言えれば楽になれる。でも、その言葉を選べなかった人間の記憶も、ここでは消えていない。ケンの退屈が最後まで退屈のままであることが、その記憶の輪郭を保ち続けている。

2. 下心という正直さ——レディ・ジェーンという存在

ケンには、 好きな子がいる。 松井和子 (マツイ和子)、 通称 レディ・ジェーン。 三年生のクラスでいちばん美しいとケンが確信している、 高嶺の花の女子だ。 この恋愛感情は、 ケンの行動の中で非常に重要な位置を占めている。 バリケードを建てること、 フェスティバルを企画すること、 親友のアダマ (山田正) とイワセ (岩瀬学) を巻き込んでいくこと——それらすべてに彼女の存在がうっすらと影を落としている。 かっこいいところを見せたい、 彼女の前に立ちたい、 そういう欲望が、 ケンの「革命」 の燃料の一部になっている。

これは、 恥ずかしいことだろうか。 たぶん、 恥ずかしい。 「革命は恋愛感情のためにあった」 とは誰も言いたくない。 動機の中に下心が混じっていると気づいた瞬間、 行動全体が何か薄いものに見え始める経験を、 ケンは知らない。 ケンは恥じない。 「レディ・ジェーンに見せたい」 という動機を、 むしろ親友のアダマやイワセにも隠さない。 アダマは少し呆れた顔で、 それでもケンに付き合っていく。 イワセもケンの下心を笑いながら、 一緒に動いていく。 純粋でなければ無効になる、 という論理は、 この三人の中にはない。

村上龍はケンの下心を笑わない。 批判もしない。 ただ書く。 レディ・ジェーンの存在を消さないまま、 ケンの動機の中に置いておく。 その書き方の淡さが、 かえって印象に残る。 下心があることを問題にしていないのではなく、 最初から問いとして立てていない、 という感じだ。 ケンがレディ・ジェーンのことを想うのは、 呼吸と同じくらい自然なこととして、 ただそこにある。

下心を持って動くことは、 思ったよりずっと普通のことではないか。 誰かに認められたくて、 誰かに見られたくて、 誰かの隣に立ちたくて。 そういう欲望は行動を生む。 その欲望が不純であることと、 行動が存在することは、 矛盾しない。 ケンはレディ・ジェーンのことを想いながらバリケードを建てようとするが、 だからといってバリケードが嘘だったわけではない。 動機の不純さと、 行動の現実性は、 別の話だ。 その区別を、 この小説は説明しないが、 確実に内包している。

レディ・ジェーンは、 ケンの中の「見られたい」 という欲求を可視化する装置のようにも見える。 その欲求は決して美しくない。 でも、 それがなければケンは動かなかったかもしれない。 不純なものが、 現実を動かした。 その事実の前で、 村上龍は何も言わない。 言わないまま、 1969 年の夏を走り続ける。 下心が行動の起点であったという事実は、 小説の最後まで、 そのままの形で残っている。 レディ・ジェーンへの想いが成就したかどうかより、 その想いがケンを動かし続けたという事実の方が、 この小説では長く息をしている。

3. フェスティバルという方法——正面に立てなかった者の迂回路

ケンがやることは、バリケードを建てて、フェスティバルを開くことだ。思想的な声明を出すわけでも、激しく主張するわけでもない。ケンが思いつくのは、演劇をやること、音楽を鳴らすこと、祭りを作ることだ。遊びの形式を取ることで、既存の秩序に異物を混入させようとする。その方法は、思想的に洗練されているわけではない。あるのは「これをやったらおもしろいんじゃないか」という感覚と、「どうせなら派手にやりたい」という欲求だけだ。

これは、 ある種の弱者の戦術なのかもしれない。 正面から向き合う力も、 思想的な一貫性も、 ケンたちにはない。 ケンが声を上げ、 アダマが現実的な調整役を引き受け、 イワセが少し離れた場所から付き合っていく——三人の役割分担も、 別に最初から決まっていたわけではない。 動きながら、 そういう形になっていく。 その限られたリソースで、 ケンは最大限の出来事を作ろうとする。 正攻法ではなく、 迂回路を探す。 その迂回路が、 フェスティバルという形をとった。 迂回路であることを、 ケン自身は恥じていない。 そこがまた、 奇妙に清々しい。 弱さから生まれた方法が、 弱さのまま動いていく。

革命の文学は、しばしば重くなる。犠牲が語られ、覚悟が語られ、悲壮感が漂う。でも、『69』にはそれがほとんどない。ケンたちは笑いながら動く。失敗しても笑う。ばかばかしいと思いながら動く。その軽さは、諦めではないのかもしれない。大義がないから悲壮になれない。退屈から出発しているから、笑えなくなったら意味がない。その自覚が、この小説のトーンを作っているように見える。

でたらめで、衝動的で、途中で仲間が揺れて、想定外のことが次々と起きる。それでも、フェスティバルは現実になろうとした。なろうとした、という過程が、この小説ではとても丁寧に書かれている。到達したかどうかよりも、動いた軌跡の方を、村上龍は大事に扱う。計画の外側に出てしまった何かが、それでも確かに動いていた、という感覚が、ページを追うごとに積み重なっていく。

フェスティバルという方法は、純粋に怒り、純粋に戦う力を持てなかった人間が、それでも何かをしようとしたときに浮かんでくる形式なのかもしれない。弱さかもしれないし、あるいはひとつの賢さかもしれない。その曖昧さを、この小説は裁かない。裁く言葉を持ち込まないことで、ケンたちの動き方は、評価の外側に置かれ続ける。私たちは自分がフェスティバルを選んだ理由を、うまく言語化できないことがある。それでも、その選択は存在した。ケンが迂回路を選んだように、迂回路は一つの道だった。

4. 成功してしまった夏——大義がないまま、 何かが立ち上がった

ケンたちのバリケードは、 成功する。

これは、 この小説の構造の中で重要な点だ。 不純な動機で動いた高校生が、 失敗して挫折する物語ではない。 退屈と下心を燃料にして、 アダマとイワセを巻き込んで、 全共闘に向けて言いくるめるような形で高校をバリケード封鎖し、 ケンは 成功してしまう。 数日後にバリケードは解除され、 ケンとアダマたちは停学処分を受ける。 そして、 停学が解けたあと、 三人はフェスティバル (祭) を企画する。 演劇、 音楽、 映画上映を組み合わせた、 高校生の手作りの祭。 そして、 フェスティバルもまた、 大成功を収める

この成功は、 物語の中で勝利として書かれていない。 ここが村上龍の徹底ぶりだ。 「不純な動機で動いた高校生が、 思いがけず成功してしまった」 という事実を、 村上龍は 大義を与えずに 置き続ける。 ケンは英雄にならない。 アダマもイワセも、 その成功で何かを学んだようには書かれない。 社会も学校も、 ケンの動きで何かが根本的に変わったわけではない。 ただ、 1969 年の長崎の、 ある高校で、 ケンが動いて、 成功して、 それで夏が終わった。 それだけのことが、 起きた。

多くの物語では、 成功には意味が与えられる。 成功したから自信がついた、 成功したから次の段階へ進んだ、 成功したから社会が動いた。 その語り方は、 成功を素材として処理することで、 成功そのものを物語の燃料に変えていく。 でも、 『69』 の成功は、 そのまま置かれる。 成功しても、 ケンは挫折からも成熟からも遠い場所にいる。 退屈と下心は、 成功した後もそのまま残っている。 ケンの内面は、 バリケードの前と後でほとんど変わらない。 その変わらなさを、 村上龍は淡々と書き続ける。

ここに、 この小説の核心の一つがあるのかもしれない。 「動いたら、 たまたま成功した。 でも、 それで何かが変わったわけではない。 自分も社会も、 ほとんど何も変わらなかった」 という夏の質感。 退屈と下心を燃料にして始まった行動が、 退屈と下心を解消することなく、 ただ成功という形で終わった。 成功は意味を生まなかった。 動いた事実は残ったが、 動いた人間は変わらなかった。 そういう夏の輪郭が、 1969 年の長崎の上に置かれている。

村上龍が書かなかったことにも、 何かがある。 ケンを更生させなかった。 反省させなかった。 成功を契機にして大人にさせなかった。 成熟した語り手が 1969 年を振り返って意味を加えるという構成も、 取らなかった。 その禁欲が、 この小説を時代の証言から解放している。 1969 年のケンは、 1969 年のまま走り続け、 そして 1969 年のまま夏が終わる。 後からの解釈が、 その走りに追いつかない。 追いつかせないことで、 ケンの夏は評価の外側に置かれ続ける。

意味化されなかった成功を持つ人間の話を、 ここで少し考える。 動けて、 たまたまうまくいって、 でもそれで何かが変わったわけでもなかった。 不純な動機で動いて、 思いがけず到達して、 それでも自分はほとんど同じだった。 そういう経験は、 「成功体験」 として整理することも、 「失敗から学んだ」 として処理することもできないまま、 記憶の中で少し宙に浮いている。 この小説がその隣に置けるとすれば、 それはケンの夏も似たような場所に浮いているからかもしれない。 大成功のまま意味化されず、 1969 年の形をして、 そこにある。

成功してしまった夏は、 失敗した夏より語りにくいことがある。 失敗には反省という語り方が用意されているが、 「成功したけど何も変わらなかった」 には、 適切な語り方が用意されていない。 ケンの夏は、 そのまま意味化されないまま残る。 その残り方が、 読み終えた後もこちらの胸の中に、 何かを静かに置いていく。

5. 動けなかった者の輪郭——書かれなかった1969年

ケンは、ある意味で特別な人間だ。行動できた人間だ。退屈と下心を燃料にしながらも、バリケードを建てようとし、仲間を集め、フェスティバルを企画した。その「動けた」こと自体が、すでに一つの出来事だ。1969年に、動けなかった側の人間のことを、この小説はほとんど書かない。でも、読んでいると、動けなかった側の人間の輪郭が、背景にうっすら浮かんでくる。

ケンの学校にも、バリケードの外にいた生徒たちがいたはずだ。同じように退屈を持て余しながらも、動く理由を見つけられなかった人間。不純な動機すら、うまく形にできなかった人間。そういう存在が、小説の背景に透けている。彼らの1969年は、どこにも書かれていない。書かれていないが、消えてもいない。ケンが動いた裏側で、動かなかった夏もたしかに存在した。その夏には、名前がない。

動けた人間と動けなかった人間の間にある差は、思想の深さでも、純粋さの度合いでも、人間としての質でもなかったのかもしれない。何かが少し違っていた。タイミングか、周囲にいた誰かか、その日の気分か。その「少し」が何だったのかは、この小説も答えを持っていない。ケンを英雄にしないことで、動けなかった側の人間を敗者にしない。どちらも同じ不純さを抱えていたとすれば、その前で裁く言葉はどこにも見当たらない。

1969年に生きていなかった人間にとっても、この問いは遠くない場所にある。別の時代の、別の文脈の中で、不純な動機を持ったまま何かをしようとした経験は、多かれ少なかれある。その経験の中で、動けた人間と動けなかった人間が生まれた。どちらも同じ場所から出発していたとすれば、その分岐点は偶然に近いものだったのかもしれない。あるいは、動いた側も動かなかった側も、自分がどちらだったのかをよく分かっていなかったのかもしれない。

動けなかった夏のことは、語られにくい。動いた夏は、たとえ不純でも、形として残る。でも動かなかった夏は、何も起きなかったという事実だけが残る。その非対称が、時間とともに記憶の中に沈殿していく。ケンの夏を読みながら、自分の動かなかった夏のことを、誰かがふと思い出すことがある。その思い出し方は、やさしくはない。でも、何かを責めるわけでもない。ただ、そういう夏があった、ということが、静かに浮かぶだけだ。

この小説が書いたのは、動けた側の不純さだ。でも、その不純さが書かれることで、動けなかった側の記憶も、どこかで少し息をしやすくなるのかもしれない。不純さは、動いた者だけが持つものではなかった。その事実が、書かれた1969年と書かれなかった1969年の間に、ひっそりと横たわっている。

おわりに

本を閉じると、 1969 年の長崎の夏が終わる。 ケンとアダマとイワセが何かを得たのかどうか、 フェスティバルの大成功が彼らに意味を残したのかどうか、 村上龍はその評価を渡さない。 渡す代わりに、 あの夏の温度だけが手元に残る。

退屈と下心と、 どこかへ行きたいという衝動。 それだけで人間は動けるし、 それだけで 1969 年のひと夏は存在した。 大義がなかったことは、 動いたという事実を消さない。 不純だったことは、 動いた事実より先に来ない。 そして——ここがこの小説の意地悪なところでもあるが——成功したことが、 意味を後づけしてくれるわけでもなかった。

成功したまま何も変わらなかった夏の記憶を、 不純なまま持ち続けている人間が、 どこかにいる。 その記憶に、 この小説はたぶん何も言わない。 ただ、 隣に座っている。

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