「ルックバック」という作品について

『ルックバック』という映画がある。
2024年の春、劇場公開されたこの作品は、もともと藤本タツキによる読み切り漫画が原作である。藤本タツキといえば『チェンソーマン』や『ファイアパンチ』といった、暴力性と静謐さを同居させた作品で知られるが、本作『ルックバック』はそうした文脈の中でも、特異な位置を占めている。
映画の上映時間はおよそ58分。長編でもなく短編とも言い切れない、ちょうど“1時間弱”という独特な枠に収まるこの作品は、その静けさと余白の多さによって、観る者の記憶に長く残る構造を持っている。
物語は、ごく普通の小学生である藤野が、クラスに不登校の京本という生徒の作品を目にするところから始まる。藤野はクラス新聞で四コマ漫画を描く少女であり、彼女にとって「絵がうまいこと」は誇りであった。だが、その京本の絵を見た瞬間、自分の描いてきた世界がいとも簡単に凌駕されるのを目の当たりにする。
ここでまず興味深いのは、少女漫画的な友情や成長の物語ではなく、「才能の差」と「嫉妬」といった、よりリアルで苦味を含んだテーマが主軸に置かれている点である。
その後、藤野と京本は不思議な共同作業を通して、少しずつ絆を深めていく。だが、それはあまりにも儚く、唐突に終わりを迎える。
映画の中盤から後半にかけて、一つの事件が物語の重心を大きく揺らす。その描写は決して直接的ではないが、明らかに2019年に起きた京都アニメーション放火事件を想起させる。ここで描かれる「喪失」には、単なる悲劇の再現を超えた「藤本タツキ」なりの深い哀悼と祈りのようなものが込められているように感じられた。
この作品の特徴の一つは、時間の流れと分岐の扱い方である。 物語後半、藤野は“もしも”の世界を生き始める。「あのとき、違う選択をしていたら」という思考実験をそのまま映像化したような構成がとられ、観る者に強烈な「自分の時間」への問いかけを行う。
この手法は観客の賛否を分けるかもしれない。だが個人的には、そのあいまいで多層的な時間構造こそが、この作品の核だと考えている。人生とは常に「if」の連続であり、人は振り返ることでしか未来に進めない。そういった普遍的な構造が、この作品の“静かな衝撃”の正体なのだろう。
加えて言えば、劇伴の少なさも特筆すべき点である。 音楽が抑えられた中で、登場人物の呼吸やペンの走る音、階段を上る足音といった“生活音”が印象的に響く。これによって作品全体が、より私的で、より切実なものとして響いてくる。
藤本タツキ作品に共通する“日常と異常の交錯”という要素は、本作でも健在である。だがその描き方は極めて控えめで、あくまで静かに、じわじわと心を侵食してくる。
(当たり前であるが藤野、京本の頭からチェーンソーは生えていない)
そして、何より印象的なのはタイトルである。 『ルックバック』。振り返る、という行為そのものが、作品全体のテーマと構造を支えている。過去を振り返り、誰かを思い出すこと。そこには後悔と哀悼、そして未来への静かな希望が含まれている。
作品を観終わってすぐ、明確な答えが返ってくるような種類の映画ではない。だが数日経っても、その情景がふと脳裏をよぎる。これは“置いていかれる映画”ではなく、“何かを置いていく映画”といった表現が適切かもしれない。そしてその何かを享受するのか、放棄するのかは僕たちの自由なのである。
藤野と京本。 どちらが描いた線がどちらかのものか、もはや曖昧になるような共同作業。 それはきっと、創作という行為そのものの比喩でもある。
私たちは日々、自分の中の過去や記憶と対話しながら何かを残している。 その小さな営みが、たとえ誰かの目に触れなくとも、確かに生きている証になる。そんなことを教えてくれる映画であった。