G-0C41NE8DJB 『PERFECT DAYS』―「今」という木漏れ日を、僕らはどう抱きしめるか|亀吉の呟き
亀吉の書評

『PERFECT DAYS』―「今」という木漏れ日を、僕らはどう抱きしめるか

yoshiomi

静寂に包まれた吉祥寺の朝。竹箒がアスファルトを撫でる、乾いた音が聞こえてくる。それが、平山の「完璧な一日」の始まりを告げる合図である。ヴィム・ヴェンダース監督が描いた『PERFECT DAYS』は、単なる一人の清掃員の日常を追った物語ではない。効率と比較という病に侵された現代社会に対するアンチテーゼである。

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1. 自分の世界を死守するということ。平山にとっての「聖域」

平山の暮らしには無駄がない。しかし、それは決して「欠乏」を意味しない。朝起きて、育てている苗木に水をやり、作業服に着替え、自販機で缶コーヒーを買い、古いカセットテープをカーステレオに差し込む。この一連のルーティンは、彼にとっての「聖域」である。他者と比較することは決してない。自分だけの満足度を丁寧に、かつ、頑なに積み上げていくその姿には、ある種の「神聖さ」すら漂う。

我々はいつから、自分の幸せの基準を「他者の眼差し」に委ねてしまったのだろうか。SNSを開けば決まって流れてくるのは、誰かの「完璧な(に見えている)人生」である。それと自分を比べ、持っていないものを数え、根拠のない焦燥感に駆られる。平山は、そんな喧騒から遠く離れた場所で、自分の世界を死守している。彼が撮り続ける「木漏れ日」の写真は、誰に見せるためのものでもない。その一瞬の光が、彼自身の心を潤せば、それで完結しているのだ。この「木漏れ日」に意味はない。自分のスキルが上がるわけでも、お金になるわけでもない。ただ自分の心を潤すためだけに、平山は「木漏れ日」を撮り続けている。

2. 「足るを知る」という贅沢

平山の部屋には、テレビもパソコンもない。あるのは、古びたカセットテープと、100円の古本屋で買った文庫本の山である。物理的な豊かさは、人と比べる以上、どこまで行っても渇きが癒えることはない。上には上があり、新製品は次々と現れる。これは昔から何も変わっていない。マルクス・アウレリウスはカエサルを羨んだかもしれない。だがカエサルはアレクサンドロス大王を羨んだだろう。他者との比較は我々に渇きしかもたらさない。一方で、平山は「質的な豊かさ」を知っている。ルー・リードの歌声に耳を澄ませ、ウィリアム・フォークナーの言葉を噛み締める。その時間は、何万人の兵隊に指示をすることよりも、最新のデバイスを使いこなすことよりも、遥かに濃密で贅沢なものだ。それを平山は知っている。

「知足(足るを知る)」という言葉がある。今の情報社会、大量消費社会において、この言葉ほど実践が難しいものはない。しかし、平山は自分の心に正直であることで、それを体現している。自分が何を愛し、何に心動かされるのか。それを知っている人間は、他者の価値観に振り回されることがない。平山の質素な暮らしは、貧しさの象徴ではなく、自分の本質を選び取った結果としての「究極のミニマリズム」と言える。ヴェンダース監督が小津安二郎へのオマージュとして描いたこの精神性は、過剰な情報に溺れる現代人にとっての、最も贅沢な「救い」なのかもしれない。

3. 木漏れ日の下の脆さと、他者という救い

しかし、平山は決して「悟りを開いた仙人」ではない。彼はエピクテトスでもなければブッダでもない。彼もまた、一人の人間だ。姪のニコとの再会、疎遠になっていた妹との対峙、そしてスナックのママを巡る小さな嫉妬。それらの出来事は、彼が築き上げた静かな世界にさざ波を立てる。平山であっても、人と比べた時に、自分の脆さや、やるせなさを感じる瞬間があるのだ。

映画の中で特に印象的なのは、夜の公園で出会った見知らぬ男(友山)との「影踏み」のシーンである。癌を患い、死を目前にした男との、子供じみた、しかしあまりにも純粋な遊び。そこで交わされる「影が重なると、影は濃くなるのか?」という問いかけがある。これは、本作における最も重要な哲学的提唱である。

平山はこれまで、一人で完結する世界を死守してきた。しかし、この「影踏み」を通じて、彼は他者と「重なること」の温もりを再発見することになる。影が重なれば、そこにはより深い闇が生まれるかもしれない。だが、それは同時に、独りでは決して到達できない「濃密な時間」と「自己という存在」を生み出すことでもある。「影踏み」は独りではできない。平山と友山が、互いの影を追いかけ、重なり合い、笑い合う姿。そこには、言葉を超えた魂の交流があった。孤独を抱える大人同士が、ふとした瞬間に見せる「脆さ」と、それを誰かが共有してくれることで得られる「救い」。平山であっても、人と比べた時に、自分の脆さや、やるせなさを感じる時があるのだ。

どんなに自分を律していても、人間は一人では完結できない。誰か支えてくれる人、自分を認めてくれる人の存在があって初めて、僕らは自分の脆さを抱えたまま生きていく事ができる。
平山にとってそれは、――古本屋の店主、銭湯の常連、そして「影踏み」をした見知らぬ男――なのだろう。彼らによって、かろうじて平山の世界は保たれているのだ。

4. ラストシーンの泣きながら笑う、その「肯定」の正体

映画のラスト、ルー・リードの「Perfect Day」が流れる中、車を運転する平山の表情を、僕らは数分間にわたって見守ることになる。あの表情は、一体何を物語っているのだろうか。踏みで他者と触れ合い、自分の脆さを再確認した後の、あの複雑な表情。そこには、過去への深い後悔、未来への漠然とした不安、そして「今」を生きる決意が全て混ざり合っている。

泣いているようにも、笑っているようにも見えるあの表情は、人生そのものの「受容」なのかもしれない。影が重なれば濃くなるように、悲しみも喜びも、重なり合うことで人生の深みが増していく。平山は、自分の孤独を、脆さを、そしてそれでも続いていく日常を、あの表情ですべて引き受けたのだ。

完璧な一日なんて、どこにもないのだろう。それでも、今日という日の「木漏れ日」を愛おしみ、自分の足で立ち続けること。その覚悟こそが、平山を、我々を、明日へと運んでくれている。あのアスファルトを撫でる竹箒の音が聞こえる限り、世界は何度でも新しく生まれ変わるのだ。「次は次、今は今」そう、平山は我々にも囁いてくれるだろう。

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映画・本が好きな極めて一般的な20代
こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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