G-0C41NE8DJB 「夜と霧」が我々に問いかけること|亀吉の呟き
亀吉の書評

「夜と霧」が我々に問いかけること

yoshiomi

たとえば、夜。あなたが静かな部屋でこの本を開いたとする。そこに記されているのは、ある種の沈黙だ。叫びではなく、憤りでもなく、ほとんど音のない、深く暗い苦しみである。

ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』は、「読む」という行為そのものに“重さ”を与えてくるような本だ。衝撃的な文が絶え間なく羅列されている。もちろん感動もなければ、涙を流すようなエモーションとも違う。むしろ読者に“姿勢”を問うてくる。「あなたは、読む覚悟ができていますか?」と。これはこの本が我々に伝えてくれる大切なメッセージの1つである。

この本の語り手であるフランクルは、ウィーン出身の精神科医であり哲学者でもあった。ナチス政権下、彼は強制収容所に送られ、アウシュビッツをはじめとする複数の収容所を転々とする。

父、母、妻、多くの家族を失い、自身も生死の境をさまよいながら、奇跡的に生還を果たした。そして、帰還からわずか数日でこの『夜と霧』を書き上げたという。

それは、記憶がまだ生々しいうちに、魂が焼けるように痛んでいるうちに綴られた記録でもある。

頭で考える前に、心が叫ぶように。文字が紙にしみ込むよりも速く、体験が言葉になって溢れ出していると言っていい。その痕跡が、この書には確かに刻まれている。その生々しさを読者は間違いなく感じることができる。

この本には、ひとりの人間が「人間であること」をどこまで保持できるかの試みが綴られている。

収容所での生活は、人間性の否定そのものだった。名前を奪われ、番号で呼ばれ、髪を剃られ、衣服を取り上げられる。(ここの本書での表現はかなり衝撃的なものである)
つまり、個人としての輪郭が剥ぎ取られていく。
フランクルはそれを、「自己というものが薄皮一枚ずつ剥がされていくようだった」と表現する。


希望、尊厳、誇り、信仰、愛――それらが一つひとつ削られていく。それでも彼は言う。「それでも、最後の自由は残されている」と。
この“最後の自由”とは、「自分の置かれた状況にどう反応するかを、自分で決める自由」である。

外的な自由が奪われても、内面の選択は奪えない。人間は、自らの苦しみに“意味”を見出すことによって、どこまでも人間であり得る――その言葉には、凄みがある。

フランクルは後年、「ロゴセラピー(意味による癒し)」という独自の心理療法を提唱する。人間は快楽を求める存在でも、単に苦しみを避ける存在でもない。

人間とは、“意味”を求める存在なのだ。
『夜と霧』の中でも、その哲学はすでに輪郭を持って語られている。

「自分にはまだ、やり遂げるべき仕事がある」
「どこかで、待ってくれている誰かがいる」

そんなささやかな想いが、過酷な状況の中で人を生かし続けた、というのである。

人は生きる意味があるから生きるのではない。生きようとすること自体に、意味が宿るのかもしれない。
この本は、「人間とは、生きる意味を問う存在である」という命題を、これ以上ない極限状態の中で証明している。

それをもっとも静かに、しかし強烈に語っているのが、愛の記憶の場面だ。

死の行進のさなか、飢えと寒さと絶望の中で、フランクルは愛する妻の面影を思い浮かべる。

身体はもはや痛みに麻痺し、視界もぼんやりとしている。(詳細な情景はここでは割愛する)
それでも彼の心の中には、愛する妻の像がはっきりと浮かび上がる。

その姿は語りかけてはこない。ただ、こちらを見つめているだけだ。

それなのに、その沈黙が何よりも雄弁だった。
「生きて」と語るような気がした。いや、きっと語っていたのだ。

フランクルはこう記す。

「私は愛する人の顔を思い浮かべ、その愛が自分を支えていることを感じた。」

その瞬間、彼の歩みは物理的な足取りではなく、“想い”によって支えられていた、のだと。
言葉も、触れ合いも存在しない。ただ“想う”という行為だけが、彼に人間としての温度を与えた。

それは、言葉のない祈りに似ている。

愛は、距離や死さえも越えるのかもしれない。
それがほんの一瞬であったとしても、彼にとっては「生きること」に立ち戻らせてくれる唯一の力だった。

誰かを想うこと。それが人間であるという証であり、生きることの根拠になりうる。
失われた存在とのつながりが、見えないままに心の奥底を照らしてくれることもある。

その光は小さくても、絶望の中では、星のように確かな意味を持っている。

さらにフランクルは、あの極限状況においてさえ「美」について言及している。

夕暮れの空の色。雪の中で見上げた朝焼け。誰かが奏でたバイオリンの音色。

それらは一瞬のことであり、ふと立ち止まったときにだけ訪れる。
あまりにも場違いなその美しさは、逆説的に“人間であること”の最後の砦のように描かれている。

美を感じられる心――それがまだ人としての感受性を失っていない証だと、彼は言外に伝えている。

そして読者にそっと教える。「あなたが、美しいと感じるその心こそが、奪われざる人間性なのだ」と。

だがこの本の核心は、さらにその奥にある。

フランクルは繰り返しこう述べている。

「人間は人生に問いを立てるのではなく、人生から問いかけられているのだ」と。
「私たちは生きる意味を“探す”のではなく、人生から“問われている”のである。」

この言葉は、フランクルのロゴセラピーの核心にある考えであり、
同時に、読者自身の“生きる姿勢”を問うものでもある。

たとえば、大切な人を失ったとき。夢が砕けたとき。希望を見失いかけたとき。
私たちは「なぜ」と問いを発したくなる。けれど、本当に大切なのは、「どう応答するか」である。

「この痛みを、どのように引き受けるのか」
「自分の苦しみに、どんな意味を見出すのか」

答えは誰かが与えてくれるものではない。
自分自身がその都度、姿勢をもって決めていくことが求められているのだ。

『夜と霧』は、単なる記録や証言ではない。

読むことで、自分自身の“あり方”を突きつけられる本だ。
情報を得るのでもなければ、単なる感動を得るのでもない。

読み終えたあとに残るのは、静かな余韻、そして応答を求められているという感覚である。
本を閉じたあとでこそ、本当の読書が始まる――そんな気配すらある。

現代は、かつてよりもずっと物質的には豊かになった。
しかしその一方で、「生きる意味が見つからない」という声が、ますますあふれている。

そんな時代にこそ、『夜と霧』の問いかけは鋭く響いてくる。

あなたが今、向き合っている苦しみには、どんな意味があるのか。
その意味を、あなた自身の意志で選び取ることはできるのか。

読む覚悟がある人にだけ、この本は扉を開く。
そして、その扉の先には、沈黙のなかでなお光を失わない、“人間”という存在の強さが、確かに立ち上がっている。

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