「羊をめぐる冒険」について

本作品について
今回は『羊をめぐる冒険』という小説について記載する。
これは1982年に発表された、村上春樹の第三長編であると同時に、彼の初期三部作の完結編にあたる作品である。読者のなかには、“鼠羊三部作”という言葉を耳にしたことがある人も多いかもしれない。その三部作――『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』、そしてこの『羊をめぐる冒険』。そこには、「僕」という語り手を通して紡がれていく、都市の孤独、喪失、そしてどこか奇妙な幻想性が貫かれている。
そしてこの『羊をめぐる冒険』は、第4回野間文芸新人賞を受賞している。村上春樹が純文学作家としても本格的に認められ始めたのは、この作品からだと言っていい。(村上春樹の作品を純文学と取るかは些かの議論がありそうだが)『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』は小説というよりエッセイを束ねた作品と言ってもいい。よって小説と呼べるかは人によって意見の分かれるところだろう。
この頃の村上春樹は、まだ“流行作家”ではなく、“どこか変わった物語を書く新人作家”として認識されていたように思う。そこにこの賞が与えられたというのは、文壇にとっても彼の存在が無視できないものになった、というある種の“合図”だったと言えるかもしれない。
興味深いのは、この作品がただ文学的な評価を得ただけではなく、読者の側からも強く支持されたという点だ。その後の『ノルウェイの森』で爆発的な人気を得る以前に、村上春樹の読者層を決定づけた“転換点”として、この『羊をめぐる冒険』は村上春樹作品の中でも特別な位置に属しているのかもしれない。
物語は東京で広告代理店を営む“僕”が、失踪した友人“鼠”の謎を追い、北海道の奥地へと向かうことから始まる。きっかけは、ひとつの広告に使った“羊の写真”。この写真をきっかけに、政治的な影響力をもつ謎の組織に接触される。そして彼は、“ある特別な羊”を探し出すことを命じられる。というストーリーである。
設定を書いているとなんだかミステリー小説のようにも思えてくるが、実際にこの小説はその枠にきれいには収まらない。語り手の“僕”は命じられるままに北へと車を走らせ、出会い、別れ、風景の中をひたすら進んでいく。
旅の途中、彼と行動を共にするのが「耳の美しい」女性。名前は最後まで明かされないが、(『ダンス・ダンス・ダンス』で彼女の名前が「キキ」ということが明かされる)彼女の耳には奇妙な力があり、聴く者を静かに虜にするような、不思議な魅力を持っている。まるでこの現実世界にあって、どこか少しだけズレているような人物である。
耳の綺麗な女について
少しだけ「耳の綺麗な女」について深掘りをしてみる。
名前も持たず、どこか非現実的で、しかし妙に生々しいこの女性は、主人公の「僕」にとって一種の“媒介者”のような役割を果たしている。彼女が持つ特別な“耳”――つまり、何かを聴き分ける力を持つ耳。その耳を使って、彼女は他者の心の波長のようなものを感じ取ることができる。あるいは、もっと曖昧な、言葉にならない“気配”のようなものすら聴き取ってしまうのかもしれない。
物語中盤、僕が北海道に向かう直前、彼女は突然「行かないで」とだけ言い、そしてその後、忽然と姿を消してしまう。その場面は決して劇的な描写ではないが、読後には妙な余韻が残る。まるで、彼女が僕の人生からだけでなく、物語の中の“現実”からもこぼれ落ちていってしまったかのような感覚に近いのかもしれない。
彼女の登場場面はそれほど多くはない。だが不思議なことに、物語全体に影を落としている存在でもある。彼女は決して多くを語らない。主人公と過ごす時間も、どこか夢のようで曖昧だ。けれど、彼女の“耳”だけは妙にリアルで、何度も繰り返し描写される。その描写はどこかフェティッシュで、でもいやらしさはなく、むしろ神聖さすら感じさせるような手つきで描かれている。
また、“耳の綺麗な女”という呼称そのものが、彼女の身体性を象徴しつつ、どこか匿名性のヴェールをまとっている。名前を持たないまま現れ、感情の核心には触れさせず、それでも確かに主人公の中に何かを残していく。彼女の存在は、“僕”にとって欠けていた感覚、あるいは彼自身が失ってしまった世界との接点そのものだったのかもしれない。
つまり、この「耳の綺麗な女」は、もしかすると、主人公が見失ってしまった“世界との繋がり”を代わりに感じ取ってくれる存在だったのだろう。言葉にならない違和や、無意識の痛み。それらを、主人公の代わりに静かに聴き取ってくれる。その“静かに聴く力”こそが、この物語で失われ、再び求められていくものの象徴でもあるように思う。
彼女は途中で物語からいなくなる。ある日突然、気配ごとすっと消えてしまう。だが、その不在がずっと物語の底に残り続ける。彼女の“耳”が聴き取っていた何か。それは最後まで明かされない。だが、確かにそこにはあったという確信だけが、読後に静かに残る。
話を戻す。そんな「耳の綺麗な女」である、彼女とともに訪れた北海道の“ドルフィン・ホテル”では、現実と幻想の境界が揺らぎはじめる。さまざまな記憶が交差するそのホテルは、物語のなかでひとつの“精神的な交差点”として機能している。
物語の中盤以降、舞台は札幌からさらに奥地の山中へと進んでいく。そこには、“羊男”と呼ばれる奇妙な存在が待っている。
羊男について
羊男。文字通り、羊の毛皮をかぶったような格好で現れる、謎のキャラクターだ。
彼が初めて現れるのは、北海道の山奥にある洋館の一室、「闇の部屋」と呼ばれる不思議な空間のなかだ。現実と非現実の境界が溶け合うようなその空間で、“僕”はしばらく孤独に過ごす。そしてある夜、ひときわ不可思議な気配とともに羊男が姿を現す。
彼の姿は鏡に映らず、声もどこか遠くくぐもっている。耳の綺麗な彼女に言わせれば、「そこにいるはずなのに、そこにいないような存在」。現実と幻のあわい――羊男は、まさにその“はざま”に生きているのかもしれない。
その語り口はユーモラスで、ひらがなの多いセリフ回しが印象的だ。冗談のようでいて、どこか切実でもあり、どこか懐かしさを感じさせる。
村上春樹の作品世界には、こうした“案内人”のような存在がしばしば登場する。現実を越えた物語の境界でふと現れ、少しだけ示唆を与えてふっと去っていく。羊男もまた、その系譜に連なるキャラクターの一人だ。
しかし、彼の役割はそれだけではないのかもしれない。
“僕”がこの物語の中で向き合わなければならないのは、失われた恋人の記憶であり、かつての友人・鼠の変化であり、そして、自分自身のアイデンティティの曖昧さである。
羊男は、そうした“僕”の内面の深い層を静かに照らす存在として描かれている。彼の言葉には抽象的で詩的な響きがあるが、それらはすべて、“僕”が抱えている喪失や空白とつながっているように感じられる。
物語の核心にあるのは、羊をめぐる謎ではあるが、実のところこの“冒険”は、外に向かう外交的な旅ではない。むしろ、“自分の奥へと向かう旅”である。その意味で、羊男は単なる幻想的存在ではなく、“僕”自身の深層意識が形をとったものなのかもしれない。
「きみはきみのやりかたで、やっていかなきゃいけないんだよ」
そんな言葉を残して、羊男は静かに去っていく。
“彼が何者であるか”は最後まで明かされることはない。だが、そこが重要なのではない。彼が現れたという事実そのものが、物語の重心を少しずつ変えていく。
そして「ダンス・ダンス・ダンス」へ
彼の存在によって、“僕”の旅はようやく内側へと折り返しはじめる。鼠がなぜ変わってしまったのか。僕は何を見落としていたのか。そして、これからどうやって生きていくのか。羊男は何も答えてはくれない。ただ、ひとつの「部屋」を通して、静かに“僕”を導いていく。
この作品において、“羊”は権力や支配のメタファーとして描かれているとよく言われる。だがそれ以上に、“羊男”という存在は、喪失と記憶の交差点に立つ、物語の深層を司る案内人であり、我々読者自身の中に眠る感情を揺さぶる存在でもあるのかもしれない。
そしてこの物語における“冒険”の意味とはなにか。それは、喪失の意味を受け入れながら、自分自身のなかの“空白”を埋める旅だったのかもしれない。
『羊をめぐる冒険』に登場する風景はどこかリアルでありながら非現実的である。バブル前夜の東京、観光客の少ない北海道の寒村、廃墟のようなホテル──そのどれもが“過去”と“現在”のあわいに位置しているように見える。
これらの風景を通じて、“僕”は何かを取り戻したのか。それとも、より深く喪失したのか。その答えは描かれない。ただ、読者は“僕”とともに歩き、悩み、そして別れを経験する。
この作品はのちに続く『ダンス・ダンス・ダンス』へとつながっていく。
“僕”は再び語り手となり、今度は“踊る”ことで喪失を受け入れていこうとする。
この“喪失と再生”の循環こそが、村上春樹作品の一貫したテーマの一つである。
『羊をめぐる冒険』は、村上春樹という作家の初期から中期へ向かう、過渡的な位置にある作品である。
いい意味で、明快なストーリーと村上春樹独特な言い回しが心地よくブレンドされている作品だ。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』ももちろん好きだが、村上春樹を初めて読むには適切な作品かもしれない。